本題になかなか入れませんが、3つのグナ。
サットヴァ(純粋性) ラジャス(活動性) タマス(非活動性)
について、せっかくだからもう少し理解を深めていきましょう。
・サットヴァ: 純粋、明晰、調和、愛、平和
・ラジャス: 活動性、興奮、情熱、欲
・タマス: 不活発、沈滞、無感応、緩慢、暗
この3つのグナが様々な配合比率の組み合わせをしていく中で、物質から精神まで「23の領域」が作り上げられます。
と前回説明しましたね。
あらゆる物質は、この3つのエネルギーの組み合わせが現れた存在である。
そして非物質的な存在、チッタ・・・ココロというものも、この3つのエネルギーの組み合わせ。
この3つのグナを理解するために、今回は「ココロの五つの状態」というものをみていきましょう。
千人いれば千人のココロの有り様があるし、たった一人のなかでもココロはずっと変化し続けます。
フラットに安定していたりとか、びしっと動かないココロの持ち主に出会ったことってありますか?
たぶんないと思います。
ココロはその本質としてたえず揺れ動いているし、
周囲の出来事に応じて玉虫色に変化します。
ニホンジンは、古来(あくまで古来の日本人ね。。。)
すべては「変化とともにある」ことに慣れているから、ココロに中心とか主客を見出そうとしません。
「出来心」というコトバにあるように、そういった「不安定さを許容」する適当さに長けているんだけど、
インド人は分析とかヒエラルキーが大4好きだから、ココロに関しても高い次元・低い次元という段階で区別していきます。
実に捕らえどころがないココロというものを、一応「5つの状態」にカテゴライズするんですね。
5つの状態を簡単に説明しましょう。
◆ココロ(チッタ)の5つの状態◆
・クシプタ 落ち着きのない心
・ムーダ 惑わされた心
・ヴィクシプタ 散漫な心
・エカーグラ 一点集中の心
・ニローダ 止滅の心
ではでは
アーティスト気分になって、ココロというテーマで造形美術をするとしましょう。
素材はサットヴァ・ラジャス・タマスという3つのグナ・・・エネルギーです。
配合は自由ですが、組み合わせによって5パターンの造形を行うことが出来ます。
【クシプタ 落ち着きのない心】
まず、ラジャスを多めにブレンドしてみることにしましょう。
すると「クシプタ・チッタ」というココロの状態ができあがります。
いい現れ方をすれば活動的かつ情熱的です。
止まったら死んじゃう回遊魚のような性格だから、休暇であってもスケジュールは分刻みでびっしり。
ちょっと攻撃的で手に余るところはたまに傷だけど、前へ前へと進む力があるから、今のような経済優先の世の中では「クシプタ人格」欠かせません。
マイナスな現れ方をすれば、興奮気味で落ち着きもなく、周囲の空気が読めないタイプとなります。
【ムーダ 惑わされた心】
では今度はタマス中心にブレンドしてみましょう。
すると「ムーダ・チッタ」というココロの状態ができあがります。
一日ごろごろしているだけで幸せだと感じる方はこの傾向が強いかも。
おっとりとしているとか、おだやかであるというような、印象もない訳じゃないです。
でも、この性質が強くなることを、インドでは特にマイナスとして捉えます。
タマスの質は不活発、沈滞、無感応、緩慢、暗でしたね。
もしも行動のための価値基準の奥底に不活発、沈滞、無感応、緩慢、暗が巣くっていたらどうなるでしょう?
「今日はのんびりしよう。なぜなら天気がいいから。」
「今日はのんびりしよう。だって外は雨だから。」
自分の置かれた環境に適宜感応して、充実した行動を選択するのではなく、
たえず自分の内側の不活発な部分を維持するための発想しかしなくなってくる。
だから「決して変われない。」「成長しない」タイプの人になります。
変わろうとしない人は総じて想像力に乏しく観念的です。
「タクの主人は。。」のザーマス系奥様みたいに、権威の意見を自分の意見とカンチガイして、「考える」というニンゲンの基本機能を無意識に放棄してる人って意外と多い。
またタマスは重さ・つまり質量との関連が深いから、物質主義にも陥りやすくなる。
暗さとの関連も深いから、ネガティブシンキングのループにはまっちゃう人も要注意です。
【ヴィクシプタ 散漫な心】
「クシプタ・チッタ」「ムーダ・チッタ」そして今から説明する{ヴィクシプタ・チッタ」は、いってみれば「無意識的に生きている」時の私たちのココロの姿です。
実生活が退屈であれば、休暇には何が欲しくなりますか?
刺激ですよね。
逆に刺激的であわただしい生活をおくっていれば、休暇には「まったり」とした麻痺感覚が欲しくなります。
私たちが求める娯楽って、突き詰めて見ていくと強い刺激か、麻痺かのどちらか。
ラジャスが強ければタマスを、タマスが強ければラジャスが。。
さて、つぎはラジャスとタマスをバランスよく配合してみましょうか?
すると、とても揺れ動きやすい「ヴィクシプタ・チッタ」というココロの状態ができあがります。
この状態は、あるときはタマス優位 あるときはラジャス優位。
時と場合により優勢が変化します。
柔軟性や対応力に飛んだ人のようにも見えますが、根っこにあるのは日和見主義です。
柔軟や対応というのは、外部の出来事に対して、ベストの選択をチョイスできる知性があるということ。
この「ヴィクシプタ」が強いと、そうではなく出来事にとても流されやすい、コロコロと主張が変わるようなタイプになります。
「絶えず気持ちのいいところにいたい。」気持ちが強いネコみたいな人はこの傾向がつよいかな?
【エカーグラ 一点集中の心】
3つのグナの最後の一つ。
サットヴァというものがあります。
清らかなエネルギー。純粋、明晰、調和、愛、平和と関連が深いとされています。
このサットヴァ優位のココロ状態を「エカーグラ・チッタ」といいます。
よく「一点集中の心」と訳されます。
一点集中。。。
説明を分かりやすくするために、「明晰さ」にポイントをしぼって考えて見ましょう。
弓矢をイメージしてください。
30メートルくらい先にマトをおいて、矢を放ちましょう。
さて、あなたから、マトまでの間の空間。
そこに風邪がびゅんびゅんと吹いていたり、
犬がワンワンと大喧嘩していたり、
女子中学生が座り込んでアイス食べてたり、
おじさんが焚き火したりしていたら。。。
なかなかマトを絞りにくいですよね。
で、その空間の様が。。ようするにココロなんですね。
マトにたいして意識をしゃんと集中できるようにするには、障害物をぜんぶ片付けて、自分からマトまでを「すっきりした」状態にする必要があります。
ヨーガスートラの場合、そのマトとは「真の自己」のことです。
真の自己にたどり着くためには、私たちの中のラジャス性(活動性、興奮、情熱、欲)とタマス性(不活発、沈滞、無感応、緩慢、暗)を弱めて、サットヴァ性(純粋、明晰、調和、愛、平和)
を優位にする必要があります。
一点集中というと、頑張ってマナコを緊張させて。。というイメージが強いですが、
汚れた水を凝視して水底をみつけるというのではなく、
水そのものを浄化すること。
そうすれば無努力でも水底をはっきり見ることはできますよね。
エカーグラには、一点集中の心のほかに「惑わされない 曇りのない心」という言い方もあります。
またのちほど、スートラの中で解説される「サムプラジュニャータ・サマーディ」という意識状態にも「エカーグラ・チッタ」が深く関わってきます。
【ニローダ 止滅の心】
ラジャス・タマスをすっかり片付けて、ココロの中身はサットヴァ性・・・純粋、明晰、調和、愛、平和だけ(笑)
それだけでも十分すごいんだけど、さて、ではそこからさらに「サットヴァ性」を取り除いてみましょう。
すると、そこにはもう何もありません。
その状態を「ニローダ・チッタ」といいます。
それがどのような意識状態であるのかについて、ヨーガスートラでは第一章後半に数段階のサマーディに分けて説明してゆくのですが、ここでは簡単に。。
・ニローダ・・・心が止滅した状態では、もう思考が知性の妨げをすることがありません。
だから本質のみを見通すようになる。 本質以外はココロに映らないともいえるでしょう。
啓示というものは純粋な心に降りてくるとされます。
実は、インドに残る数々の聖典群 ウパニシャッドとかギーターは、そういった意識状態のうちに記録されたといわれています。
マントラについても同じように言われています。
瞑想のなかで降りてきた、コトバとしての意味をもたない神聖なバイブレーション。がもともとのマントラです。
なかなか「エカーグラ・チッタ」と区別した説明が難しいのですが。。
たとえば透明な水であれば水底は見えますが、水がそこに在ることには変わりありません。
手元からマトまで空間しかないとしても、空間というものによって「マトと私」は隔てられている。
これが「エカーグラ・チッタ」ということになるのかな?
では、今までみてきた説明が、ヨーガで「どう活用していくか」?ということだけど、
まず自分のココロの状態に対して謙虚になることに使います。
チッタが曇った状態にあることを理解し、無知を認めること。
真実をみつけるためにはその自分自身のあり方を変えていく必要があることを理解すること。
ヨーガによって心を明晰にし まず「エカーグラ・チッタ」の段階を目指していくということですね。
ヨーガハ チッタヴリッティニローダハ
ヨーガとは、心素(チッタ)の作用を止滅させることである。
最終的にはチッタの働きはすべて消滅させる。
つまり「ニローダ・チッタ」がヨーガの目標。
しかし、いきなりそれをやろうとするのはまず無理です。
そこから、今回のスートラが意味をもってきます。
<Ⅰ-5>
ヴリッタヤハ パンチャタイヤハ クリシュターアクリシュターハ
チッタの作用には五種類ある。それらは苦しみを引き起こす(クリシュタ)ものと、
引き起こさない(アクリシュタ)のものとがある。
消滅させるべき対象 チッタ つまり「ココロの働き」をまず理解しました。
そうすると、5種類に分類できました。
<Ⅰ-6>
プラマーナ ヴィパリヤヤ ヴィカルパ ニドラー スムリタヤハ
その5つとは、正しい認識(プラマーナ)、あやまった認識(ヴィパリヤヤ)、
概念化(ヴィカルパ)、睡眠(ニドラー)、そして記憶(スムリティ)である。
(個々の説明はまた今度ね。)
そして、それはクリシュタ(苦しみを引きおこす働き)とアクリシュタ(引き起こさない)に分けることができました。
そしたら、「ニローダ・チッタ」が現れるまで、役に立つもの(アクリシュタ)を上手に使いましょう。
ぎりぎりまで。
というのがヨーガのやり方。
シャトルが宇宙に出るにはロケットブースターつかうけど、大気圏離れた時点で切り離します。
ココロも同じように、ヨーガでいう理想の境地に達するには道具として必要なんです。
いきなり全部をすてない。
でも到達してしまえば、使うも使わないも自由自在になる。
だから到達するまでは上手につかう。
でもそれまではココロに僕たちはふりまわされています。
ココロのための道具として生きている。
これまでにかなりシツコク説明したけど、「ココロ」イコール「本当の私」は、すくなくともスートラの中では大間違いなんですね。
ココロは、本当の私(意識 気づき プルシャ)とは永遠に交わらない、別個のものであるというのがヨーガのベースとなるシャーンキャ哲学の立場。
そしてそれが判ってしまえば、本当に気づいてしまえば。。
チッタは自動的に「ニローダ」へと向かう。
でもそれが「識別」できないうちは、、「ココロ」イコール「本当の私」が実感だから。
私が幸福になるために「ココロ」を上手につかっているつもりが、実は
「ココロ」の中の煩悩が満足するための道具として「私」が使われている。
「私は心にふりまわされている」
という感覚は誰でも感じたことはあるはずです。
「生きていることが苦しい」と感じたことがあるのならば、これは当てはまります。
でもここでその「苦しさ」に振舞わされることから、ちょっと距離をおいて。。
で、ココロには役にたつ働きもあれば、もちろん役にたたないココロの働きもあるのだなあ。と。
それが理解できたら、「役に立つ働き」はうまく使って。
「役に立たない働き」は上手に弱めてゆきましょう。
ってことを言っているんですね。