<Ⅰ-5> ヴリッタヤハ パンチャタイヤハ クリシュターアクリシュターハ
チッタの作用には五種類ある。それらは苦しみを引き起こす(クリシュタ)ものと、 引き起こさない(アクリシュタ)のものとがある。
<Ⅰ-6> プラマーナ ヴィパリヤヤ ヴィカルパ ニドラー スムリタヤハ
その5つとは、正しい認識(プラマーナ)、あやまった認識(ヴィパリヤヤ)、 概念化(ヴィカルパ)、睡眠(ニドラー)、そして記憶(スムリティ)である。
<Ⅰ-7> プラティヤクシャ アヌマーナ アーガマーハ プラマーナーニ
プラマーナとは、直接経験による認識(プラティヤクシャ)、 正しい推理による認識(アヌマーナ)、聖典に基づく認識(アーガマ)である。
前回は、ココロ(チッタ)の5つの状態について、3つのグナを通じて解説していきましたね。
今回はココロ(チッタ)の5つの作用・・・働き方についてです。 遠回りをしましたが、ようやく本題に戻ることができました。
さて<1-5>では、まずチッタの作用を
①クリシュタ・・・苦しみを引き起こすココロの働き方。
②アクリシュタ・・・苦しみを引き起こさないココロの働き方。
このの二つに分類しています。
まず「苦しみ」 「引き起こす」というコトバに注目しましょうか?
苦しみとは「数値化・計測」できる物理的なものではなく、
あくまで個々の「命を持つもの」の主観。
出来事に対する反応の仕方であって、つまりココロの側が「引き起こし」ていること。
ここは大丈夫かな?
いいや。 外部に必ず「苦しみ」の客観的な基準はあるよ。と思うかもしれません。
では「命をもつもの」にとって「共通する」と思われる「苦しみ」を探してみましょうか?
あれもこれもキツイけど、やっぱり「命を失うことに関わるもの」かなあ? とは思いませんか?
でも「命を失うことに関わるもの」を私たちは避けたいはずなのですが、
私たちが自分の生き方を省みればどうでしょう?
命を無駄に削るような行為もあえてしています。
「怒り」「失意」「嫉妬」といった感情は間違いなく内臓系統にまでダメージを蓄積します。
だったら、さっさと気持ちを切り替えればよいはずなのに、 キツイ思いほど私たちは繰り返し反芻して、
追体験をしまくってしまうなんてこともありますよね。
こういった「負の感情」は、絶えず「新たな負の感情」を栄養として ココロに宿り続けるという
一種の生命体のような働きもあるのですが、 本題からはまた逸れてしまうのでいったんおいておきましょう。
「苦しみ」は外部で起きた「出来事そのもの」ではない。
例えば私たちに馴染み深い「四苦八苦」というコトバ。
これは「生老病死」 「怨憎会苦」 「愛別離苦」 など 私たちが避けられない苦しみを説明する仏教用用語ですが、
例えば「愛別離苦」。
これは失いたくない相手もいつかは失わなければならないという苦しみです.
客観的な事象だけみれば、 「私の世界から、あの人が不在になった」という事実だけです。
でも「出会う前」も同じように不在だったはずなのに、 出会う以前は、そこまで自分の世界を「苦しい」と感じていたでしょうか?
同じ「あの人の不在」に苦しみを伴なわさせるのは、まぎれもなく私たち自身のココロとうこと。
あ、もちろんだから割り切れという話の流れではありません。苦しみはまぎれもなくありますから。
ここでは 「あらゆる苦しみはココロの作用によって引き起こされる」 というポイントだけ押さえておいてください。
<Ⅰ-6> プラマーナ ヴィパリヤヤ ヴィカルパ ニドラー
スムリタヤハ その5つとは、正しい認識(プラマーナ)、あやまった認識(ヴィパリヤヤ)、 概念化(ヴィカルパ)、睡眠(ニドラー)、そして記憶(スムリティ)である。
ココロの作用はまとめると五種類ある。
そのうち四つには「苦しみ」をわざわざ引き起こす性質があります。
でも唯一、引き起こさない「働き方」があります。
それがプラマーナ・・・「正しい認識」と呼ばれるものです。
そこで次にプラマーナについて理解を試みましょう。
<Ⅰ-7> プラティヤクシャ アヌマーナ アーガマーハ プラマーナーニ
プラマーナとは、直接経験による認識(プラティヤクシャ)、 正しい推理による認識(アヌマーナ)、聖典に基づく認識(アーガマ)である。
プラマーナは3つあります。
①プラティヤクシャ・・・直接経験による認識
②アヌマーナ・・・正しい推理による認識
③アーガマ・・・聖典に基づく認識
そしてプラマーナの反意語的な意味としてヴィパリヤヤ・・・誤った認識
これもついでに覚えておいてください。
◇正しい認識とあやまった認識・・・プラマーナとヴィパリヤヤ◇
プラマーナとヴィパリヤヤについて説明するために、インドで よく使われる有名なたとえ話があります。
蛇とロープの話。
団〇六の世界の話じゃないからR指定はないです。ご安心を。
(といってもアンダー18でこの解説読んでる奇人はいないだろうなあ。)
暗闇を歩いているときに、足元になにやら長いものがあります。 ちょっとドキッとしますよね。
そのとき、ココロに起きる作用はプラマーナかヴィパリヤヤのどちらかです。
まずプラマーナ。
これは正しい認識だから、「ちゃんと観察する」「懐中電灯で照らして調べよう」といった反応です。
その結果 「なんだ これロープじゃん」という認識を得て一件落着。
もう一つの反応ヴィパリヤヤ。
誤った認識だから、ドキッとした反応ままに、そのロープを蛇であると認識します。
びっくりして走り去ります。 確認作業なし。 いっさいなし。
近くの民家に駆け込んで 「いま蛇に食われそうになったー!」とか、
「10メートル級の超大型だった。」とか 「よく考えたら、あれはUMAだ。」 とか。。。
正しい認識と誤った認識については、この説明でもいいんだけど、ちょっとあっさりしずぎだから、もっと深く考えてみましょうか。
◇プラマーナ① 直接経験による認識・・・プラティヤクシャ◇
プラマーナの最初の一つは①プラティヤクシャ・・・直接経験による認識でしたね。
この直接経験。 実は2種類あるのです。
①一つは 「感覚」」通じたプラティヤクシャ。
②もう一つは「超感覚」を通じたプラティヤクシャ。
まず感覚を通じた「プラティヤクシャ」から。
ぶっちゃけね。 感覚(5つの感覚機関)をとおしての情報はすべてまちがいである (かもしれませぬ。。)
感覚って、ようするに脳に送られる電気信号です。
五感という窓口を通じてでは、「対象を直接知る」ことはできないんです。
例えば目で見たもの。 対象については視神経を通じて脳に伝達されるけど、その間に修正をうけています。
目に映った時点では、昔のカメラみたいに上下さかさまにうつった画像だそうです。
それを脳が正しい位置に修正しているってこと、知っている方も多いと思います。
それプラス 感覚をとおした情報って、すべて過去の記憶と照合されて分類されます。
それ知ってる 見たことある 食べたことある。
その感情を伴って何かを体験することは 多くの場合、「直接体験」するのではなく、記憶との比較を体験するだけなんだね。
誤った認識に一役買う作用に「スムリティ・・・記憶」って入っていますでしょ?
ポジな例・・・「きみはいつまでも昔のままでキレイだね。」とか
ネガな例・・・奮発して白浜・船盛りお銚子付き一泊旅行に彼女を連れて行ったのに、
前にパパさんに連れて行ってもらったカリブ海のことばかり話されてウンザリしたとか。
どっちも今「目の前の世界」にはぜんぜん触れていないでしょ?
年若いうちは、照合用の記憶が少ないから体験が新鮮です。
小学生のときは一日中カブトムシ眺めていられます。
でも三十路すぎれば、経験豊富。 酸いも甘いも知るのはいいんだけど、
それがまずい方向に働くと日常が退屈になってアンニュイな表情するようになっちゃう。
ヨーガではつねに「いま ここに」を強調するのは、
経験や記憶との比較がある限り、新鮮さから生じてくるポジティブなエネルギーに触れることができないからなんですね。
次に「超感覚」を通じた「プラティヤクシャ」
これは今見てきたような、感覚の色づけや、知識による偏見 記憶による比較など
心のはたらきを一切超えた場所での経験という意味になります。
ん。さっぱり想像できない。
ですよねー。
「超感覚」を通じたプラティヤクシャ。
直接体験とは、実は「サマーディ」と同義語みたいなものです。
サマーディを通じてしか経験できないことなのです。
厳密に言ってしまえば、プラマーナ・・・正しい認識とは、すでに悟った人の知覚の在り方ということになってしまうのです。
それ以外のココロは全部「苦しみ」の元(笑)
悟らない限りは、苦しみしか存在しない。。。 いやあ。 スートラって遠慮なしで厳しいですねえ。
◇プラマーナ② 正しい推理による認識・・・アヌマーナ◇
正しい認識の二つ目は「アヌマーナ」 これはいわゆる推論 科学的なものの見方のことです。
例えば・・・
重力ってありますよね。
よね?
重力は直接見ることはできません。
「今日の重力は緑色だねえ。」とか
そういうこと言う人ときどきいるけどね
本当に緑色かもしれないなあ(笑)
重力を直接見ることはできません。(ごほん。)
でも、ボールをほおり投げれば、地面落ちてきます。
だから重力があると推論はできます。
今度はすっげー高くなげてみます。 衛星軌道まで。。。
そうすると今度はおちてきません。地球を周りはじめます。
月でボールを投げれば、ゆっくりおちてきます。
宇宙空間で同じことをすれば、そのままどっかにいっちゃいます。
こういったことから私たちは、「重力がはたらくためには条件があるのだ!」 ということを推論できます。
直接知覚できないことについても、僕らは事実を知りようがあるということですね。
こういう推論で正しい事実を導き出すことが「アヌマーナ」です。 オーケー?
でもアヌマーナにはサットヴァ性が重要です。 けっこうむずかしいんですよ。
前にテレビ番組で、江戸時代のゴーストバスターと呼ばれた人の特集を見ました。
その人物は、夜中にふと目を覚ましたときに、朧な人影が部屋にあるのをみました。
現代よりも魑魅魍魎がリアルだった時代です。
集合意識的に幽霊の存在を認めている時代なのだから、呪縛は今と比べ物にならないくらいに強烈です。
でも、勇気をもって「幽霊らしきもの」を見据えたら、それは障子の破れでした。
「ゆえに幽霊などは存在しない。」
その結論が彼を科学的なゴーストバスターとしての人生に導いたそうです。
さて、この話、アヌマーナ的に言えばどうでしょう?
実はとんでもない間違いなのです。
最初の「幽霊は障子の破れ目」という印象に完全に記憶が色づけされてしまってますよね。
だから、もしそのあと100回本当に幽霊をみても、全て障子の破れ目だと決め付けることになりかねない。
推論には知識必要なのは確か。
でも気をつけないと知識によって推論はあっというまに予断にとって変わられてしまいます。
余談ですが(・・・ヨダン違いね。)
ちなみに4大ヨーガの一つといわれるギャーナヨーガは、アヌマーナだけで、完成する難し~いヨーガの道のことです。
◇プラマーナ③ 権威(聖典)に基づく認識・・・アーガマ◇
たとえば先ほどの重力をゼロから自分で推論した場合。 ニュートンについて何の前知識も持たないで分かっちゃった場合。。
「おれ すっげー発見した! りんごおちてきたのみて、もうわかっっちゃた!
何って?
宇宙の摂理。
知りたい? 知りたい?」
うっとうしいかもしれないけど、理科の授業さぼりっぱなしの友人が本気でそう言ってきたら、
その場合 アヌマーナ・・・正しい推理による認識をしてることになります。
それに対して、学校の授業でならったり 本で読んだりして知った認識。
こちらがアーガマ・・・権威(聖典)に基づく認識ということになります。
権威ということであれば現代の場合、「聖典に基づく認識」ではなくて、
「科学に基づく認識」とか「常識に基づく認識」と置き換えたくなるんだけど、
自然科学とは、歴史的には権威である宗教に対する立証と反立証のなかで権威を獲得していった結果です。
で、 その結果、現在は科学や医学が権威の代表となりました。
でもそれらも未だに日進月歩の世界。
つまり、まだ「絶対の事実」を語ったわけでないんです。
10年前の理科の教科書と今の教科書では事実とされていることはずいぶん違います。
ってことは10年たてば、いま真実とされていることはオールカンチガイって十分にありえます。
村上春樹の小説「ノルウェイの森」の中で永沢さんというキャラクターの台詞に
「30年時の洗礼をうけていない本は読むに値しない。」
って意味のがありました。
これって一種、「時の洗礼」をアーガマに見立てたプラマーナですね。
もちろん時の洗礼にですら絶対的数値は示せないんだけど、
ヨーガでは、何千年たとうとも 「やっぱさっきのまーちがい。」 がないものを権威の対象とします。
そして、その権威の対象として「聖典群」というものを打ち立てます。
「ヴェーダ聖典」「ウパニシャッド」などなど。。
では、ヨーガでいう聖典とは、どんな内容をあつかっているのでしょう?
聖書や仏典同様、時の洗礼に風化しないテーマを扱っているのです。
神というコトバ。空性というコトバ。
ニュアンスの差こそあれ、そこで語られる共通したテーマは「絶対的な真理」について。
ヨーガの場合は、モークシャというコトバをつかいます。
だからヨーガ聖典は「モークシャ・シャーストラ」とも呼ばれます。
日本語にすれば「解脱についての科学」
全ての科学は、少なくとも現段階では必ず最先端を真理とする宿命をもちます。
ですが、解脱というテーマには最先端もファッション性もありません。
ウン千年前に聖典に記された内容には、解説書が増えることはあれども、加筆修正が加わることがないのです。
だから
「その解脱って1000年前の流行ぢゃん。」 とか
「来年ヒットする解脱はこんな感じ。」
とかありえない。
千年前の人間の心の構成要素と現代人の心の構成要素 違いはほとんどありません。
確かにヴェーダの時代 ウパニシャッドの時代 タントラ経典の時代 時代によってさまざまな聖典ができました。
でもそれは、 「人間の進化によって聖典の内容が変わっていった。」 という訳ではなく、
その時代時代の人間が理解しやすいように、 「聖典のほうから歩み寄っていた。」 というほうがたぶん正しい。
このことを理解するためにはユガとよばれるインドの宇宙観を知る必要があります。
◇ユガ◇
ユガ(Yuga)は、インド哲学において、循環する4つの時期からなる「時代」の名前である。 4つの時期とはサティヤ・ユガ、トレーター・ユガ、ドヴァーパラ・ユガ、そして最後にカリ・ユガである。4ユガを合わせたものが大ユガ(432万年)。千の大ユガをカルパ(劫)といい、梵天(ブラフマー)の昼(夜)にあたる。 ヒンドゥー教の宇宙観によると、宇宙の生命は41億年から82億年のサイクルで創造、破壊される。ブラフマー自身の寿命は、311兆400億年である。 サイクルは季節のように繰り返すと言われる。また春夏秋冬のように、それぞれのユガは段階を持ち、徐々に移り変わって行く。黄金時代から暗黒時代へのサイクルは、太陽系が別の恒星の回りを公転しているためだと言われる。 参照 ウィキペディア
簡単に言うと、宇宙や直線的な進化を遂げるのではなく、四つの時代を季節のように循環しているのだという考え方ですね。
その時代ごとに人間の質というものも変化していく。
そして現在は残念ながら人間の質は最低レベルまで低下しているといわれています。
前回
・クシプタ 落ち着きのない心
・ムーダ 惑わされた心
・ヴィクシプタ 散漫な心
・エカーグラ 一点集中の心
・ニローダ 止滅の心
という5つのココロの状態を説明しましたが、 この状態は個人個人の問題であると同時に、実は「時代的な問題」でもあるとされています。
ヴェーダ聖典群の時代。
ほとんどの人間はニローダチッタで生きていたとされます。
思考は筋肉と同じように、使うも休ませるも自由自在。
だから真理などというものは、考えるものではなく「さっと解る対象」であったのかもしれません。
時代が下りウパニシャッド。
神秘主義の時代、エカーグラチッタの時代とされています。
知性にはやや曇りがきざすものも、質の高い集中状態は手にしています。
だから、真理を理解している師のそばにいれば、師のこころが直接流れ込んでくるから、
悟りを得ることはそれほど難しくないとされます。
昔ブッダが鷲頭山に座していたとき、そばにいた弟子たちはバンバン悟ったというような逸話もありますね。
ちなみにウパニシャッドというコトバのは 「師匠のそば座る」という意味です。
次にサーンキャ哲学やヨーガスートラの時代。
ヴィクシプタチッタが優位とされます。
散漫な心は、物事の理解に時間をかける必要があります。
だから哲学が発展していきます。
この時代では、まずヴィクシプタチッタをエカーグラチッタに変えていく努力を哲学を通じて行います。
知性をサットヴァ性に純化して、正しい推論ができうるとこまで鍛えること それを深めていくことで、アヌマーナを目指す。
それがスートラをはじめ、こういった経典の研究ということの意味ですね。
そして現代。。 クシプタ・ムーダが幅を利かせていますよね。
難しい話を前にすると
「もう分けわかんないや~。 こんな話5分で限界 もうホント限界っ。」
そんな時代では、技術というものを中心にするんですね。
実はハタヨーガ経典群(ハタヨーガプラディピカーetc)は、この時代の必要性に応じて生まれてきました。
真理がわからない? じゃあ瞑想しよっか?
ん? 瞑想できない?
ふーん じゃあ心を一点集中で落ち着かせましょう。
えっ おちつかない?
ん~。エネルギーでもきれいにしよっか?
呼吸おしえるよ~ イチすって四とめて~
えっ呼吸をすると苦しい? 過去のトラウマが出ちゃった感じ?
ふーん。
じゃあ、エネルギーの流れ道から整えましょか?
カラダうごかしましょ
アーサナおしえるよ~。
これ、完全に技術中心でしょ?
技術なんだけど、その目的はあくまで解脱にむけての階段です。
そこを忘れてしまうと、ヨーガはあっというまに単なる体操になります。
のちのちヨーガの八階梯(アシュダンガー)というヨーガトリセツがでてくるので詳しくはまたそこで解説しますが。。
ハタヨーガって実際に美容とか健康とかに効果がまず出ちゃうから、本質を見失いやすいという欠点があります。
人間って見えた部分にひっかかりやすい。。
もちろん美容や健康自体には問題はありません。
問題があるのは手に入れた利益に執着してしまうマインド。 そこだけ。
ヨーガが上達するってどういうことか?
心が落ち着くこと 平静に保てること 怒りが生じないことj 生じてもすくに消せること
なんだけど、心のさまざまなもつれを自分でほどいていくことによって、見抜いて、離れていくこと。
前回の繰り返しになるけど、クシプタ・ムーダ・ヴィクシプタにある自分を
どうにかエカーグラに向けていく絶え間ない努力(アビヤーサ)のことなんですね。