題材こそ、ヨーガスートラを使っていますが、スートラを材料に、言いたいことを思いつきで語っているだけの部分もあります。
(というか、それがほとんどです・・・笑。)
ヨーガスートラに関しては、現在学びたい方たちのニーズが増えたこともあり、
専門家の方が解説書をいくつも出版されていますし、全国のヨガ教室で経験深い先生方が丁寧な解説をしていると思いますので、本格的に学びたい方はそちらを参考にされるといいでしょう。
僕自身、正直なところ学術大好きな人間でも、超ストイックな修行者という訳でもありません。
適当にすごしていることが結構好きです。
とはいえ、学者でも行者でもない人間でも、ヨーガをライフワークに組み入れていく中で、書物や先生方の指導でスートラ触れさせてもらったことで、多くを学びを得てきたことは確かですし、経験をシェアすることで、少しかもしれませんが、心に共鳴する何かが見つかるかもしれません。
クラスに参加している方は復習がわりに、
参加していない方も、ヨーガの世界に興味を持つきっかけになってくれたらとても嬉しいです。
masaoki ohrara
第一章 サマーディ パダ (三昧の章)
第一章講義 その①
◇ヨーガという言葉の意味は?
<Ⅰ-1>
アタ ヨーガーヌシャーサナム
これよりヨーガを解説しよう。
「さて、これからヨーガについて解説しましょう。」
で始まるヨーガスートラ。
ヨーガという言葉は、いろいろな訳語や意味で使われています。
現在では「繋げること」とか「調和すること」という使われ方が一般的かな?
「ヨーガとは調和の道である。」と言うとき、
一口に「調和」いっても、様々なレベルがあります。
「ココロとカラダ」といった個人の枠の中で求められる次元の調和から
「自分と他者」との調和。
「自分と社会」との調和。
究極的には・・・
表現は様々ですが
「大いなる存在との調和」
「神との一体感」
「万物との融合」
といった意識状態への到達を意味する調和。。
コトバ本来の意味はそこまでですが、
言葉を「目的への手段」にまで解釈を拡げてみると、
さらにヨーガという言葉が示すものは
「神と結びつく為の方法」
「心を止滅させること」
「解脱に至る手段」
といったことにまで発展してきます。
「大いなる存在との調和」「悟りと呼ばれる意識状態」に導かれるものであれば、
なんであれインド文化の中では、「ヨーガ」という名称が与えられるようになっていった訳です。
近代に入ってから、この「ヨーガ」はヴィヴェーカナンダ大師により、大きく4つの流れに分けて分かりやすく説明されることになります。
・カルマ ヨーガ … 無執着の活動を通じて、心の平等性を培うヨーガ
・バクティ ヨーガ … 献身的活動を通じて常に神への愛に生きるヨーガ
・ギャーナ ヨーガ … 識別と英知を通して究極存在に近づくヨーガ
・ラージャ ヨーガ … 瞑想を通じて解脱に至るためのヨーガ
僕たちに馴染深いヨーガ。。カラダを動かす系統のヨーガは、「ラージャ・ヨーガ」の準備段階として発展した「ハタ・ヨーガ」という流派に属するものです。
ご当地インドでは「ハタ・ヨーガ」とは、肉体の緻密なコントロールを基礎にした
「悟りに至る手段」と考えられていますが、
アメリカ、日本を含む非インド文化圏では、ダイエットや美容といった観点からの認知がまだまだ強いようです。
これから皆さんと一緒に学んでいくヨーガスートラは、一般的に「ラージャ・ヨーガ」の経典として扱われています。
では、「ヨーガとは何か?」という今見てきたテーマをラージャ的に表現してみましょう。
「ヨーガとは、すなわち心に対する理解と、その完全な支配を容易にするために編み出されたもの。心の科学である。」
ですからスートラを学ぶことの、一つの大きな目的は「心の仕組みを学び実践すること」であると言えます。
◇ヨーガスートラの成立について
ヨーガの歴史自体は5000年くらいあるといわれていますが、ヨーガスートラはその年月の間にヨーガについて伝えられてきた重要なフレーズを編集したものだと言われています。
ヨーガで目指す意識の状態は「悟りの意識」なのですが、
「悟りがおこること」ついて禅仏教の世界では漸悟・・・「段階的な悟り」と、
頓悟・・・「あ。俺もうわかっちゃったよ。的な悟り」の二つで説明しています。
「ラージャヨーガ」はどちらかといえば地味なほう(笑)
「段階的な悟り」を目指す系統のものです。
ステップを大切にするんですね。
ステップが明確であれば、誰でもその道を間違えずにたどることができますから。
編纂した人物として名高いのがパタンジャリ大師。
スートラが完成をみたのは5世紀ごろとされています。
そのパタンジャリ大師。
実在は紀元前2世紀とも言われています。
???(笑)
いきなりインドワールド全開ですね(笑)
考え方はふたつできます。
ヨーガスートラは、パタンジャリ大師という偉大な権威に対して畏敬の念をもって、後世の人間が編纂していったものである。
ヨーガスートラは、パタンジャリが700年くらい生きてまとめたのダ(笑)
時間の観念がインドはとても宇宙的ですから(笑)
輪廻転生を本気で信じている場合、時間というものがあまり意味を成さなくなってくるのでしょうね。
インドでは、悟りをひらくために神様に寿命を伸ばすことをお願いをするようなエピソードもけっこうあります。
「神様。あと100年あれば悟れます。 寿命伸ばしてくださいな。
。。。。
100年だとちょっと少なかったみたいです。
もう100年あればどうにかなりそうです。
。。。。
本当に惜しいところまで行きました。もう100年だけでいいからちょっと伸ばしてくださいな。。」
仏教も出身地はインドでしたね。
図書館とかにいくと仏典ってしゃれにならないほど沢山あります。
でも実際に仏陀が語った言葉として信憑性をもつものはわずか
釈迦の入滅後何百年もあとに平気で
「我門如是。。私は釈迦にこのように語るのを聞いた。」
で始まる経典が作られ続けました。
でもアカデミックなことに興味がない限り、このあたりのことはどうでもいいかもしれませんね。
実際会ったことがなくても、お釈迦様のことをずーっと考えていれば、お釈迦様が語ることと相違ない言葉がおりてくることは十分あります。
いずれにせよこのヨーガスートラ。
月刊誌のようにいついつの締め切りに合わせて編集されたわけではありません。
長い年月 多くの聖者さんが真剣に取り組んできた結果を、伝えやすいように短いフレーズに纏めていったもの。
長い年月をかけて命をふきこまれ続けた経典といえます。
◇ヨーガスートラへの取り組みかた
当たり前ですが、ここで解説として伝えることのできるものは、氷山の一角くらいにも満たないです。
伝えられることはほんの少し。
あとはそれぞれのフレーズについて、ご自身で熟慮していくことが大事。
そして体験に結びつけていくことがさらに大事。
ラージャヨーガの主題とは何か?
以下のようにまとまられます。
・自己とは、心とは何か。
・心は私たちの行動や経験を決定するのか?
・私たちは心を制御することができるのか?
・真実とは何か
そして、ラージャヨーガの目標とは何か?
・人間の完全なる変容
・自然との同調 瑣末な限定からの超越
そのためのラージャヨーガの手段とは何か?
・深く集中して考える能力
・熟慮 (ディヤーナ・これは心の潜在能力であり、訓練と発達を必要とする)
なんだか壮大だし難しそうですね。
もし、スートラやギータといった経典の内容を知識ではなしに
智慧として、もしハートから完全に理解できるのならば、
人生一丁あがりにしちゃってもオーケーかもしれません。
だからこそ、気をつけたほうがいいことがあります。
こういった経典を学ぶ時とには「分かったつもり」で満足しないこと。
経典は真理を言葉化したものです。
そして「言葉の捕らえ方」とは、個人個人の体験という枠の内側にあります。
例えば象の絵をかいてみましょうか。
なんとなく同じように書けるね。うまい下手は別として(笑)
では今度は、哺乳類の絵を書いてみましょう。
この場合、ネコだったり、サルだったり、同じ動物の絵を描く可能性は非常にすくないです。
対象があいまいであればあるほど、「共通認識」って、しているようでしていないんですね。
さて、では「ココロ」というものについて僕たちが理解していること。
どの程度の「共通認識」があるでしょう?
この言葉にたいする認識は、哺乳類の絵のあいまいさどころじゃなく、
人によってまるで違うのではないか。。?とは思いませんか?
<Ⅰ-2>
ヨーガハ チッタヴリッティニローダハ
ヨーガとは、心(チッタ)の作用を止滅させることである。
ここで書かれている「チッタ」という言葉。
これからよく出てくるので覚えておきたいサンスクリットの重要単語です。
「チッタ」 ざっくりした訳を当てはめると「ココロ」なのですが
この「チッタ」を、僕たちが自分の経験の範囲で知っている「ココロ」のイメージで理解してしまうと、経典が伝えたいこととまるで違う意味で理解してしまうかもしれません。
心の作用の止滅がヨーガって。。どういうことだろう?
ヨーガってロボットになることなのかな?
そんなふうに単純には考えないよ。と思うかもだけど
そう単純に捉えてしまったのか、ヨーガを掲げた集団で、どう考えてもまともじゃない人の命令を疑問を持たずに実行すっちゃった団体もあったでしょ?
こういった経典を学んでいく場合、
書かれている内容について見聞きしたこと、自分が解釈できたことには常にアップデートできる余地があると思ってください。
今日得た理解が、明日の経験によってはすべて見直さなければならないよ。
ぐらいのアタマを柔軟にした態度で取り組んでいくことが必要です。
暫定的な正解を努力して出すことはもちろん大事。
でも、究極的な視点からの正解は他に存在するかもしれない。
アサナの練習でたとえてみましょう。
同じことやっても毎日違う感覚がでてくるでしょ?
究極の完成型。 これしかありえないといった型と意識の状態が見つかったと感じるときがあっても、それを全く同じに毎日再現はできません。
このアサナ分かったからもういいや。。だとそこで成長が止まってしまう。
自分の出す正解とは、実は常に暫定的正解にすぎない。
そういったことを踏まえつつ、なおかつスートラの言葉にしつこく耳を傾けていけば、
必ず生きていく上での糧に繋がっていくと思います。