第一章講義 その③
◇観る者
<Ⅰ-2>
ヨーガハ チッタヴリッティニローダハ
ヨーガとは、心(チッタ)の作用を止滅させることである。
<Ⅰ-3>
タダー ドラシュトゥフ スワルーペー アヴァスターナム
そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。
この章を読んだときに、誰もが「え?」って思うであろうこと。
ん? じゃあココロ(チッタ)以外にも自分の基盤ってあるの?
前回、チッタの働きをマナス・ブッディ・アハンカーラって言葉でまとめたけど、
僕たちが見たり聞いたり感じたりすることの機能は、全部チッタの内側で行っています。
だからチッタの作用が止滅するってことは、
そういった内側や外側に向けた認識の機能がすべて停止してしまうということですね。
ちょっと試してみましょう。
短い時間、3分くらいでいいから、一度目を閉じて自分のココロをスルド~ク観察してみてください。
どうでしたか?
ボーっとしていなければ、ココロがフルに機能していたことが分かったはず。
まぶたの内側の空間の景色の認識。
聞こえてくる音などの外界への反応。
過去の記憶への反応。
未来の出来事への関心。
ココロとは、「活動することそのもの」を本質としていたはずです。
活動のない心の状態なんてありえないと感じたはず。
でも頑張って想像してみてくださいね。
目に何が映ろうとも、心が何の反応もしないのなら。
聞こえてくる音にも、心は何の連想も起きないのなら。
何も思い起こしていないのなら。
何も考えていないのなら。
そんな状態をイメージできますか?
イメージしてみても意識不明の状態くらいしか思い浮かばないですよね。
寝ているときだって「夢を見ている」という分かりやすい活動をしていますし。
でも、その状態において
見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。
ときています。
ここで一つ。大事なキーワードがでてきました。
見る者
これは一体なんでしょう?
言葉として説明するのは比較的カンタン。
ヨガコトバの世界では意識とか、純粋鑑賞者
・・・サンスクリットではプルシャという言い方をします。
僕たちが普段使っているココロという機能。
自分の意識の全てだと思っている・・・反応・知性・自我意識。
プルシャとはそれと全く別個にある、ただ見る存在。
事象に巻き込まれることなく事象を眺めている存在。
ココロの反応に巻き込まれることなくココロの反応を眺めている存在。
「仏性」、「永遠」、「魂」。
様々な文化の中でどんな呼び方をしていようとも、それは自分を越えたところにある「それ以上」という存在の自分。
それを認識できるのは、ココロ(チッタ)の働きが消え去ったとき。。。
その時、僕たちの本来の在り方・・・純粋鑑賞者・・・プルシャに落ち着くことができる。
その境地に在る事こそがヨーガである。と。
タダー ドラシュトゥフ スワルーペー アヴァスターナム
そのとき、見る者は、本来の状態(スワルーパ)にとどまることになる。
ふーん。なるほどお。。
と漠然とだけど分かったような感じになってしまいますが。。。
なっちゃいますよね。
でも、この章に限らず、こういう微妙な問題って気をつけたほうがいいです。
なぜって。。
トピックのテーマが、僕たちの経験と理解の範疇をはるかに超えたものだからです。
個人的な範疇の経験の枠から、その枠を越えたものを理解しようとすると、
それは一見成功したように見えた時でも、部分的な理解の域をでることはありません。
だから、全体像として見ようとしたときに、理解を大きく間違えることになりかねない。
これについて、よく使われるインドのことわざで「群盲象を撫でる」というのがあります。
目が見えない人たちが、ゾウを手で触って象について語るとします。
鼻を触れば
「ゾウとは長くてくねくねしている。」
耳を触れば
「ゾウとは力強い団扇のようだ。」
足を触れば
「ゾウとは太い木の幹のよう。」
それぞれ確かに正解なんだけど、象全体の姿がそこからは見えてきません。
あまり聞きなれないこの純粋鑑賞者・・・プルシャという言葉。
僕たちが「純粋性」や「客観性」というものを正しく経験した記憶がないのなら、その言葉を正確に捉えることはできないですよね?
仮にそれを、もっと馴染み深い「魂」という言葉に置き換えてみても、やはり同じことです。
(あっ。 経験したということと、経験が記憶に登らないということは別物ですよ。理屈っぽいけど。。。忘れてしまっているだけで、経験はあるんです。)
このヨーガスートラ。
<Ⅰ-2>と<Ⅰ-3>が理解できたら、あとはおまけみたいなものと言われます。
<Ⅰ-2>と<Ⅰ-3>を理解するために構成全体を必要とするっていうか。。
続けていきますね。
では、このスートラの理解のために役立つこと。
僕たちの日常的な意識は、いつもどういう状態にあるのだろうか?
次のスートラからそれを理解していきましょう。
<Ⅰ-4>
ヴリッティ サールーピャム ミタラトラ
それ以外のときには、見る者はチッタの働きに同化している。
ココロが活動している限りは、プルシャはその活動と自分を同一視している。
ここはよく、「映画を観る観客」に例えて説明されます。
冒険活劇に夢中になると映画館の椅子から飛び上がっちゃったり、
仲のわるい家族が和解して抱き合ったりするシーンで涙をながしたりとか、
出来のいい映画だと、自分がその場にいるわけではないのに、
まるで登場人物の一員になったような気持ちになることってありますよね。
エンドロールが流れてようやく「映画を観ている自分」というしらふの世界にもどってくることができます。
チッタの働きとプルシャの関係ってこれと少し似ています。
プルシャの前でココロは休むことなく活動し続けているので、
観ているプルシャは完全にそのチッタの作り出す世界に入り込んじゃっているというイメージでしょうか?
映像体験にリアルに入り込みたい場合。
家でDVD見るのと、映画館に足を運ぶのって。
同じ映像をみるにしても体験がまったく違ってきますね。
くつろいだ休みの日に、劇場まで足をはこんで、
チケット買うために列に並んで、ポップコーンを用意して、真っ暗な空間で上映を待つというように。
お膳立てがととのうほどに映画に没入できます。
そしてチッタは、ほぼ生まれた瞬間から(輪廻説のとおりなら、機能の一部は幾世にも渡って)リアリティをプルシャに提供します。
そのお膳立ての完璧さは映画館どころじゃありません。
生まれた瞬間から、スクリーンの中にいると感じるのならば、
誰が自分が観客であると気が付くことができるでしょう?
<Ⅰ-4>
ヴリッティ サールーピャム ミタラトラ
それ以外のときには、見る者はチッタの働きに同化している。
この章はもう少し掘り下げていきましょう。
同一視・・・identify ということについて。
ここでは同一視について、アハンカーラ・・・自我意識にフォーカスしてみましょう。
羊水の中でくつろぐ胎児には、まだそれほど自分という感覚はありません。
生まれてからも、しばらくの間は、ほとんど母親と一体であるような感覚が意識の多くを占めています。
それからどこかの時点で、世話を受けなければ生きていけないという本能的な理解や、
父親とか、弟や妹など、他者の存在を認識することを通じて、
自分もまた母親とは別個の生命体という自覚が始まります。
幼少期のずいぶん早い時期から、アハンカーラ(自己意識)は確立を始めるのですね。
「個」という自覚・・・自我が生まれると、次にくるのは、
「では私とは何なのか?」という疑問。
これが疑問であるあいだ、人は不安を感じます。
意識の表層には上らなくても潜在的にこの疑問、は絶えず僕たちを内側から突いて刺激しています。
だから自我は色んなやり方で「答え」を出そうと頑張ります。
おおきくは二つの方向で。。。
ひとつは自分は、「周囲とは別個の存在である。」という認識を強くしていく方向。
個性を強めていくことで自分を理解するということですね。
例えば、
かけっこが早い自分。
ひらがなが間違えずに書ける自分。
じゃんけんが強い自分。
「すごいね。一等賞だね。」とか
特別な行為として周囲の反応を呼び起こせるから、
自分というものが分かったような気持ちがしていきます。
この感情の根を通じて、アイデンティティを形成していく傾向は、成長していくと、
個性的なファッションや新しい車。
ひいては肩書きや権力を通じて自分を際立たせよう。としていく方向に繋がっていきます。
もう一つは、「自分とは何か?」から生じた不安を、周囲との同化によって解消していく方向。
みんなと同じ文房具。
みんなと同じおもちゃからスタートして。
みんなと同じ考え方。
みんなと同じ将来設計。
集団という「大きな存在」に自分を溶け込ませることによって安心を得ていく。
カテゴリーに自ら組み入れられることで自分を規定するやり方。
このようにアハンカーラ・自我意識、「個性化」と「没個性化」のどちらかを求めます。
この二つ。
ぜんぜん違うように見えるかもしれないけど、深いところでは同じ行為をしています。
どちらも実は「同化」です。
「個性」を強めていくんためにも
「没個性」に安心するためにも、
自我は周囲に「同化するための対象」を必要とします。
自分を認識するために、本来の自己とは直接関係のないところから、何か材料を引っ張ってきて、外殻をを強化していく。
そして、その外殻を「自分である」と勘違いをしてしまう。
その「勘違い」を絶えずアップデートさせながら、僕たちは「自分」という感覚を維持し続けているわけです。
では、もしもそういったすべての同一視を取り去ったときに、自分とはいったい何者なのだろう?
その方向からアプローチしていくのが、いわゆる4大ヨーガ中の
ギャーナ ヨーガ… 識別と英知を通して究極存在に近づくヨーガです。
「ギャーナ ヨーガとは、哲学的思索により感覚を制御して自我を克服し、真理に到達する方法である」
(スワミ・ヴィヴェーカナンダ大師)
自己の認識を同一視を通じて確立するのがチッタの手段ならば、
同化を少しづつ解体していくことで、本来の自己にまで立ち返るのがギャーナヨーガの手段です。
このヨーガに本格的に取り組むのはすごく難しいんだけど、
自分を見つめなおすとか、自分を知っていくこと自体はとても大事です。
僕たちにとって性別や民族、履歴や肩書きといったコンディショニングの影響を受けずに、
客観的な立場に立ち判断することはとても難しいことですね。
それらコンディショニングを通じずに感じたり、考えたりすること慣れていないし、
そもそもコンディショニングから影響を受けていることすら自覚していません。
民族とか国などにアイデンティティを結びつけた場合のヒステリックな負のケースとしての問題。
これは日々のニュース等で散々見てきているでしょう。
しかし、それをちょっと越えた視点に立つ。
コンディショニングに影響された自分「以外」の視野を想像してみる。
相手と全く同じ立場にまで立てないまでも、少なくとも今とは違う自分の視点もあるのではないか?
と思索してみることは、ささやかに見えるかもしれませんが意識をとても深めてくれます。
その練習材料は、これからスートラの中で数多く紹介されていきます。